建築家浦辺鎮太郎の世界(5)白黒の建築から赤白の建築へ。
1966年に浦辺建築事務所として本格的に建築家としての仕事を進めていきます。
これは倉敷における公共工事の倉敷文化センター(現倉敷公民館)1969年竣工
壁庇デザインに変わって浦辺の設計に多用される蔵を思わせる屋根デザイン
さらに2000人収容の大ホールを持つ倉敷市民会館 1972年竣工
「鶴の舞い遊ぶ館」とした屋根が重なり合う、ここにしかない市民会館の形
1966年に開校した東京造形大学の最初の校舎
沢の上に建つ建築で中庭からは、下部に水の流れを見ることができたという建物
側面。光庭が、効いています
模型で見てもその敷地の難しさがわかります。
中庭の写真。シュールで良いです。
そして大きな転機となるアイビースクエアー(1974年竣工)となります。
今では、古くなった工場や、歴史的建造物を壊さないで、何とか残していくという設計手法は時々見られますが、
1970年初期にこのような考え方をもって倉敷紡績所の工場をホテルやレストラン、ホールなどに改修した例は無かったと思います。
一部の工場部分を解体して中央広場をつくり、そこに解体した外壁レンガを敷き詰め、アーチの連続する外壁を新設した。
アイビースクエアーは素晴らしい建築として再生し、今でもその魅力を十分に保っています。
アイビースクエアーまでの建築は日本の風土や民芸を規範とした白と黒の建築
そしてレンガの赤やスタッコの白を多く用いるようになるアイビースクエアー後の建築は、白と赤の建築になっていきます。
ひとつの建物と通して、建築家が大きく方向転換するほどの力が、建築にはあります。
皆、模索しながらそれぞれの道を進んでいくんです。